すごい人たちの話を聞くのは自分の可能性を狭めるため

【可能性を感じるのは初歩の初歩】

経験の浅い世間知らずのうちは自分がなんぼの者かもわからないためあらゆる可能性に希望を感じる。
著名人や有名人の言葉を聞いたり本を読んだり動画を見たり、実際に会いに行ったりすると非常に刺激を受ける。
自分もこうなりたい!自分もこうなれるんだ!てな感じでとても高揚感に包まれる。
そうやっていろいろなことに挑戦しているとある時にうっすら気がつく。
「どれも中途半端で何やっても上手くいかんなぁ」


上手くいくことに出会えることももちろんある。
ただそれはとても運のいいことであるし何事にも努力できる才能を持っている人からすれば「上手くいくまでやれ」の一言で終わりだろう。
大抵の場合はそうはいかない。
いろんなすごい人に触発されてはいろんな可能性を感じいろんなことに挑戦し、そして挫折する。
その果てにたどり着く感慨は「自分てなんもできないなぁ」である。
この答えにたどり着いてからが本当のスタートだ。


そう、自分はなんもできない、なんの特別な才能もないフツーの人間なのだ。
すごい人たちは、普通とはかけ離れたすごい人だから有名人になれているのだ。
そういう人たちと比べて自分はなんもできない、だとしてそんな自分にはどんな才能がありなにができるのか。
誰かを闇雲に追いかけるのではなく自分で自分を見つめて確実な一歩を踏み出さなければならない。
すごい人たちの話を聞くのは「あ、自分にはこれできないわ」と無限の可能性のひとつひとつを潰していく作業だ。


はじめは可能性の広がりを感じ、それがピークに達してからは冷静に可能性を狭めていくのだ。
だから思いついたことはとっととなんでもやってみてさっさと見切りをつけていこう。
それが自分にできることを見つけるための近道だ。
誰かに導いてもらおうとすることをやめてからが自分の人生のスタートだ。


ではまた。

お前に人は助けられない、そして宝くじは当たらない

【なれるのか?ヒーローに】

こんな出来事がニュースを賑わせていた。

『暴漢から女児救出 レスラー表彰へ』

要約すると新日本プロレス所属のプロレスラーである「グレート‐O‐カーン(おーかーん)」選手が駅構内で女児に暴行を働こうとした泥酔男を取り押さえ警察から感謝状を授与されるというとてもホットなニュースである。
彼は普段のリングでは風貌も言動もコワモテだが今回の件については「余は正義を貫いたまで」と話したそう。


このニュース自体はこれで終わり。心温まる良いニュースだ。
しかしこれを聞いたとき「俺もこんなふうな活躍したいぜ」と思った人はいないだろうか。
少なくとも俺は思った。というか常々こんなことを妄想している。
たとえば電車の中で通り魔が発生したニュースを聞いたとき。俺なら逃げずにぶっ飛ばすね!とか謎に心の中でイキるという具合だ。
誰かが目の前で困っていたら正義のヒーロー気取りで颯爽と助けたい。
こういう妄想は無意識レベルでふっと浮かんでは消えてゆく。
このような妄想は荒唐無稽であろうか。そしてこのような妄想をしてしまう理由はなんなのか。
俺なりに考えてみた。


途中式を省くような拙い文章で申し訳ないが、この手の妄想をするやつは現状の自分に満足していない。
満足していないからって何か目的をもって一歩一歩前進する努力をしているかといえばそうでもない。
非常に安直に、人生の一発逆転を願って漫然と生きているのだ。自分で書いていてつらい。
ここで「一発逆転を『狙って』」ではなく『願って』というところが味噌である。「味噌である」って今も使う?
『狙う』という行為は具体的なたくらみであって『願う』は単なる神頼みだ。
前者はいつか成し遂げるかもしれないが後者には永遠にその時はやってこない。


ミスターチルドレンの『天頂バス』という曲の歌詞に「「明日こそきっと」って戯言ぬかして自分を変えてくれるエピソードをただ待ってる 木偶の坊」という一節がある。
そう、こういう妄想だけをたくましく働かせているやつは全員ただのなんの役にも立たない「木偶の坊(でくのぼう)」なのである。
話しを戻そう。もし、冒頭のレスラーと同じ状況に自分が居合わせたとき、そのとき咄嗟に自分は体が動くだろうか。
喧嘩や格闘技の経験もなく、体を鍛えているわけでもなく、妄想の中だけでイキっている自分がその場で酔っ払い男の肩を掴みにいけるだろうか。
否、である。
そしてもし掴みにいったとして、相手にやり返されて受け身も取れず大怪我をするか、相手をやりこめたとして慣れない状況に興奮して必要以上に相手にケガを負わせてしまうかするだろう。
このプロレスラーは男を取り押さえてから警察が来るまでの間に女児の心のケアまでしている。
普段から妄想しかしていないやつとは体の鍛錬も心構えも違うのだ。


つまりだ、うだつの上がらない日常を送り何を狙うこともなく願ってばかりいるやつは、たとえ目の前に「自分を変えてくれるエピソード」がやってきたとしても、それに気づく察知能力も掴む瞬発力もしがみつく持久力もなにもないのだ。
チャンスが来ないわけではない。来るかもしれない。しかし、来ても掴めないのだ。


ヒーロー願望を持つことの是非は問わない。ただその「ヒーローになれそうな出来事の発生」を望む気持ちは捨てるべきだ。
そんな出来事は起こらない。起こったとしてそんな都合よく解決できない。都合よく解決できたとしてその一回だけで自分の人生は何も変わらない。
一発逆転もリセットも、用意周到な努力と準備の積み重ねの上に起こるものなのだ。


いいか、だからそんなお前には宝くじも当たらない。
当たったとして大金の使い方を知らないお前はすぐにくだらにことで金をする。
悪いやつらにたかられて煽られていい気になって金を溶かす。
宝くじが当たる前よりも人も金も失って貧乏になる。
いいか、願うな、狙え。
ニュースを見て、お前の力が及ぶ範囲より外のことに興味を示すな。望むな。焦るな。憧れるな。
足元を見ろ。今手に持っている小さなライトで照らせる先だけを確実に歩んで行け。
そうすればきっとなれるよ。木偶の坊なんかじゃない、お前なりのヒーローに。


ではまた。

日本人が桜を好きな理由

【桜は日本人の美意識である】

「散る桜 残る桜も 散る桜」という良寛の句は一度は目に耳にしたことはないだろうか。
また「花は桜木 人は武士」という慣用句はどうだろう。
これらを引用せずとも日本人は桜が大好きであり日本を象徴する花として愛でられている。


それはただ桜の花が綺麗だから好きなわけではなく、花びらがまだ色づいたまま枯れる前に一斉に散る姿に「潔さ」の精神を見出しているからだ。


「月は惜しまれて入り、桜は散るをめでたしとする」という「引き際の美学」は武士道にも通じている。


「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」とは武士道の指南書である『葉隠』の一節だ。
これは命を軽く扱えということではなく、よく生きるためには時には死を怖れず命を賭ける覚悟が必要であるということだと思う。


まだ盛りであっても引くときはさっと引く。
身の処し方、命の使いどころの美学が桜の散る姿に重なるのだ。


加えて花は小さく可憐で香りもほのか、色も淡くこれがまた日本の美意識にドハマりしている。
日本は小さな工芸品に意匠を凝らしたり細工を施すのが得意だ。
表からは見えない装飾に贅を尽くしたり色も派手よりは地味な色合いの微妙な濃淡を味わう。
そんな日本人の感性に桜はマッチしている。


日本の桜と対照的なのは西洋の薔薇。
一輪が大きく強い香りに真っ赤な色味。
花は茶色く枯れ落ちた後に残すのはトゲのみ。


「薔薇は桜の単純さを欠いている」と述べたのは新渡戸稲造である。
『武士道』を著している新渡戸もきっと桜と武士道精神の繋がりを感じていたに違いない。


これは薔薇がダメなのではなく飽くまで桜と比べるとこういうところがあるよという話である。
それにしても桜もバラ科であるというのは驚きだ。
今の薔薇は品種改良されて花弁が増えているが原種は桜と同じ5枚の花弁らしい。
つまり薔薇は人工的に作られた美しさなわけだ。


薔薇も薔薇で俺は好きだ。
桜には思いを重ねることはできてもプレゼントには不向きだ。
薔薇には薔薇にしかない魅了や役割がある。


美しい薔薇も道端で気軽に見かけられる機会はほぼないが桜はあちこちに植えられていて毎年我々の目を楽しませてくれる。


4月は出会いと別れの季節。
普通、別れは寂しいものだ。
しかしそれは心機一転、新たな出会いの契機でもある。
満開の桜は散りゆく姿にさえ希望と期待を胸に抱かせる。


人もまた去り際にあっては潔く、別れゆく相手に爽やかな余韻を残す桜のように在りたいものだ。


ではまた。

志村けんさん三回忌に寄せて

この記事は亡くなられた2020年に他のブログに書いたものを、三回忌に合わせてあらためてこちらにも書き留めておくものです。


【天命】

人間には魂ってのが宿ってて、死ぬとその魂が抜けてあの世(らしきもの)に行く、っていうのが俺の世界観なんですよ。
特定の宗教を信じてるわけじゃないです。


魂には年齢も性別も肌の色も目の色も障害も言葉の壁もなくて、あるのは発する光の強さだけ。


世界中で毎日多くの人が亡くなってる。
老衰で苦しまず穏やかに息を引き取る人は稀(まれ)なんじゃないかな。


事件、事故、災害、戦争、自殺。
苦しんだり無念の死だったりが大半だと思う。


それに加えて今は爆発的にコロナウィルスによる死者が増えてる。
あの世は暗く沈んだ光の魂でいっぱいだ。


あの世にいる神様(らしきもの)は考えた。
「人間界から助けを呼ぼう」


志村けんさんは今、きっとこの世よりもあの世に必要とされて神様が連れていったんだと思う。
けんさんの魂って、めちゃくちゃ輝いててあったかそうじゃん。


あの世に行ったら古今東西のコメディアンたちと組んで爆笑をかっさらうと思うよ。
そうやって寂しくて冷たくなって震えてる魂たちを温めるんだよな。


「死」っちゅうんは、魂の在り方が変わるだけで消えてしまうわけじゃない。
身体があるかないかだけの違いだ。


志村けん」は死んだけど「志村けんの魂」は生きてる。


俺が死んであの世に行ったときにはまた笑わせてください。


この世でのお勤め、お疲れ様でした。

サバを食べて死にかけた話

【常識の範囲は人それぞれだが常識がないことで死にかけることもある】

閉店間際のスーパーで「サバ 小口(切身)」が見切り品で安かったので買って帰った。
このとき、見た目が「いかにも刺身サイズ」であることと「光り物」カテゴリの「アジ」と同列に捉えてしまったことから「刺身」と思い込み生で食してしまった。


ここまで読んで「そんなこともわからないのか!」と思われた方は世の中の「そんなこと」にどれだけの幅とグラデーションがあるかを、また自分にとっての「そんなこと」が誰かにとっては特別な知識であるという場合があることをどうか分かってほしい。
人の知識量は興味の範囲や生活様式によっててんでんばらばら
あなたの常識は俺の非常識、俺の常識はあなたの非常識。なわけだ。


食してから3時間ほど経った頃、胸の中央に食べ物が詰まったときのような鈍痛を感じ始めた。
布団に臥せってうんうん唸りながら顔も熱を持ち始め全身に汗をかいてきた。


首周りや腹回りが痒くなってかいたところ発疹が出ていることに気づき、そのときに始めて「これはヤバい」と感じたと同時に原因が「サバ」であることは見当がついた。
しかし、それがサバを生食したことによるものだとはまだ思っておらず、たんに「あたっただけ」と思っていた。


これはどう対処したらよいものかとググってみたら、これは食あたりではなく「ヒスタミン食中毒」という中毒症状である見込みが強くなった。
一応しばらくおとなしくしていれば症状は落ち着くとあったので布団でもだえながらやりすごすことにした。
というか、症状が出始めてから悪化するまでが早かったので「ヤバイ!」と思ったときには判断力が低下しており救急車を呼ぼうという選択肢は頭に浮かばなかった。
こういうときに一人暮らしはキツいな。


一晩を過ごしたのちには多少の頭痛と胃のあたりの気持ち悪さはあったものの布団から起き上がれないほどの倦怠感や顔の火照り、体中の発疹は治まっていた。


あらためて「ヒスタミン食中毒」について調べてみたところ、これの恐ろしいところは多少鮮度が落ちたものでもよく加熱すれば大丈夫、という「加熱殺菌」が通用しないところ。
そしてヒスタミンが増えても味や匂いに変化がないところだ。
ヒスタミンは一度増殖してしまったらもはや減らせないので、対処法は「鮮度管理」と「鮮度が落ちる前に食べる」ことしかない。


ここで怖いのは、今回俺が見舞われた症状の原因が単に生で食べてはいけないサバを生で食べたことによるものならば次は防ぎようがあるが、ヒスタミンの増殖によるものであったならばたとえ加熱してもヒスタミン食中毒にかかっていたことだ。


俺はありがたいことに今まで食あたりになったことがない丈夫な体の持ち主である。
運もよかったのだろう。
なので今回の症状が食あたりなのか中毒症状なのかの区別がつかない。
ただネットで照らし合わせた限りではヒスタミン食中毒っぽい。


サバを買ったスーパーは大手チェーンで鮮度管理や値引きのタイミングはきちんとしていると思う。
それでもヒスタミンが増殖してしまったのが並んでしまったのだとしたら、消費者としては特にこれから暖かくなっていく季節は生食用の魚は見切り品で買うのはやめようという自衛策しかない。


そしてなにより、大前提としてサバは生で食べてはいけない魚なのだということが今回の学びであった。


ではまた。

死に至る病

自分のどこが嫌かって、自分がどんなときに心底惨めかって、それは誰かに心を傷つけられたときに、というか相手が自分を傷つけようと意図しての言動ならまだこっちも敵対心を持てるからいいんだけど、そうじゃなくて、咄嗟の疑念とか、つい漏れ出た本音とか、そういう意図しない言動で自分が傷ついたときに、つまり相手はそのつもりがなくても「俺は今の傷ついたよ」ってときにさ、それを相手に言えないんだ。


そういうときって、相手は興奮状態というか、平常心じゃない、冷静じゃないわけよね。
俺に対して不満やなにかしらの募る思いがあるか、はたまた俺とはまったく関係ないところでストレスが溜まってるとか体調がよろしくなくてイライラしてるとか理由はいろいろあると思うんだが、とにかくピリピリしてるわけじゃん。


そういうときにされる不穏な言動がね、向けられる攻撃性がね、悪意がないとわかっていてもものすごく怖く感じるのね。


これは幼少期に不仲な両親のケンカを目の当たりにしてきたことが原因のトラウマ。
親のケンカなんて子供にはなんの非もないし関係もないんだけど、子供って「これは自分のせいかな」とか「これは自分がなんとかしなきゃ」って責任を感じちゃうんだよね。


そのときに「おいふざけんなよ!ケンカなんてするな!お前らのせいで俺が気分悪くなるじゃねえか!」って言えてたらとんなに楽だったろうな。
そんなこと言えるわけないよね。子供に。
子供は怯えるだけなんだよ。


そのときに身についた反応のクセ、思考のクセは根強くて、ことわざで「三つ子の魂百まで」っていうけどあれ本当にそうだなと思う。
親に対してだけじゃなく人間関係全般に影響し続けるんだ。


たから理不尽なことが見に降りかかったときに、その理不尽さに意識が行くんじゃなくて相手の感情をなんとかなだめようとすることに意識が行っちゃう。
本当はそこじやないんだよ気にするところは。


「なんでそんなこと言うんですか?」「なんでそんな言い方するんですか?」「それは誤解です。俺が言いたかったことはこういうことです」「俺はそんなこと思っていません」
はっきり言いたい。はっきり言えたらいいのに。


でもダメなんだ。咄嗟に謝っちゃうんだ。愛想笑いしちゃうんだ。怒るんじゃなくてなだめすかそうとしちゃうんた。


そういうときにさ、本当に自分が嫌になって、本当に自分が惨めで、消えて無くなりたくなるんだ。
傷ついたことよりも、傷ついたことに怒れない自分が悲しくてしょうがはいんだ。


なんとか昔よりは自分の意思を伝えられるようにはなった。
でも、まだまだそういう場面は多い。


だから深い人付き合いはできないししたくない。
好きな人ほどなんかあったら悲しくなっちゃう。
そんな思いをするくらいなら適度な距離を保って付き合っていた方がいい。
そんな風に思っちゃうんだよな。


ではまた。

もしも学生時代に戻れるならば

【そんなことはできないとわかりつつ】

学生時代に戻れたら、学校にいかない。
いじめられてたとかはないし、そこまで特別嫌いな先生もいなかった。
とりたてて嫌な思い出はないけど、もう一度行きたいとは思わない。


当時から比べて敏感になったんだな。些細な嫌なことに。
最近よく「ブラック校則」が話題になるけど、校則だけじゃなく先生の意識も現代からしたらかなりブラックでしょ。今も残ってると思うけど。
今の意識で昔に戻ったら耐えられないよ。
学校生活の中で9対1でしか嫌なことが起らなかったとしても、その1が致命的に嫌だったら9の良いところを捨てても構わない。捨てるしかない。
頻度の問題ではなく重症度の問題だから。


学校に行かなくなって人生がガラッと変わって今も付き合ってる親友たちといる未来(いま現在)がなくなろうとも、学生時代に戻ったら俺は学校に行かない。
つまり、学生時代には戻りたくはないってこと。
よく「学生時代が楽しかった」とか「戻れるなら戻りたい」とかいう人いるけど、よほど今がつまらないのかな。


運良く環境もよくて本人もおおらかで些細なことが気にならない性格の人だったら学生時代も良い思い出のまま昔を懐かしめて今の生活も不満なく過ごせているのだろうか。


当時は自分の傷つきやすさに無自覚だったけど、今は何が嫌いで何が自分を傷つけるか分かるし自分を守れるのは自分だけだという意識が強いからわざわさそういう環境に行くこと(戻るようなこと)はしない。

さらば学生時代。クソったれ。


ではまなた。