「人に迷惑をかけてはいけない」という呪い

「人に迷惑をかけてはいけない」ってのを大前提の道徳みたいに言うのは害悪。


どんなに控えめに生きてたって人間社会はお互いに世話になりながら生きてる。


「自分のことは自分でやってます」なんてとんでもない思い上がり。
それどんだけ狭い範囲のことだよって。


人は知らず知らずのうちに他人に迷惑をかけながら生きていることを前提に話をしよう。


「自分も迷惑をかけてる、だから他人の迷惑も許す」
これは簡潔にまとめて言ってるだけで「迷惑」にも濃淡がある。


たとえば「犯罪」はもちろん論外だしやられた当事者にそいつを許せなんて言わない。


憎けれりゃ憎めばいいし恨みたきゃ恨めばいい。


だから「他人に迷惑をかけるな」じゃなくて「俺に迷惑をかけるな」でいいんですよ。


「他人」なんて漠然とした言い方じゃなくて「これは俺にとって迷惑だからやめてくれ」って言えばいいのよ。


大人は子供に「他人」とか「社会」とか顔の見えない亡霊みたいなもんちらつかせて脅かして縮こまらせるな。


「他人」なんて星の数ほどいる。
「社会」なんて星の数ほどある。


まずやりたいことはやりたいようにやらせてみてぶつかったらアドバイスすればいいんだ。
その方が子供だって実感が掴める。


ケースバイケースで教えていくことの面倒臭さを放棄するな。


子供が持つ「誰に対して迷惑」とか「なんで迷惑」っていう疑問にきちんと向き合おう。

組織が嫌いな理由②

【人の評価に寛容さがない】


仕事の評価は「できる、できない」だ。
これは当然のはなし。
組織の要請に応えられるか否か。
それでお給料をもらっているわけだ。


しかし、そもそも仕事が「できる、できない」って「向いているか、向いていないか」っていう要素がデカイんですよ。
そこを見ずして「お前はできないやつだ」って、まるで「人間的にダメ」みたいな言い方されちゃうんですね。
そんなこと分からないのに。


たしかに評価する人(上司)はそこまで気を回してサポートする必要はなくて組織としてその人に価値があるかどうかを判断すればいいので、それを受けてなお組織に残って努力するかどうかは本人次第。


やっぱり誰でも仕事は上手くやりたい気持ちはあるし仕事を通して自分の価値を確認したり世の中に社会人の一員として貢献してるみたいな充足感を感じたいんですよ。
そーですよね?たぶん。


だけどだけど、やっぱりやっぱり、人には向き不向きがあるんですよどーしても。
我慢して努力してみてもいいけど、組織ではそこは評価されないんだ。


組織の型に自分をはめられるかどうかだ。
組織に寛容さを求めちゃいかん。


だからね、やっぱり俺は組織には向いてないんだ。

組織が嫌いな理由①

【アホな年長者が多い】

仕事の成熟度と人としての成熟度は関係ない。
会社に通ってれば、歳を取れば自然に人としても成長するわけじゃない。


エスカレータじゃなくて階段。
登らないやつはいつまでも同じところ。

人は「どれだけ長く生きたか」じゃなくて「どれだけ深く生きたか」かである。


「深さ」は「経験数 × 思考」


「とにかく行動派」でも「思慮深い派」でもどっちでもいい。でもどっちかだけじゃダメ。
「10×2」でも「2×10」でもどっちでもいいけど、どっちか片方が「0」じゃダメだよねって話。
そのうち勢いついてきて両方とも数字がでかくなってどんどん進歩してく。


とにかく、組織の中での価値と人としての価値は必ずしも一致しないのに勘違いして偉そうにしてるやつらが多い。
うんざりだよ。
偉そうにしなきゃいいんだけどさ。
どうもムリみたい。


仕事以外のコミュニティに属して若者と交流があったり違う考え方に触れたりして新鮮な気持ちを持つ機会がある人は謙虚になれるけど、同じ職場しか知らない、休日も決まりきった過ごし方しかしない人はどうしても凝り固まっていくよね。


先進的で風通しのいい会社だったらまた違うんだろうけど、ほとんどの会社は旧態依然としててこういうアホな年長者にぶち当たる確率が非常に高いんで、というか100%ぶち当たってきたのでもはやなんの希望も楽観もないですよ。
期待するだけムダ。


組織には深入りせず(正社員にならず)適度な距離を保ちつつ(非正規のまま)余暇で好きな人たちとつるむのがいい。
生活は高望みしなきゃ、見栄を張らなきゃ、いくらでも営める。


日本は我慢することの代償のデカさを軽視しすぎた。
我慢は美徳なんかじゃねえ。

ブラック企業を支える労働者

【狡くて賢い経営者と真面目で馬鹿な労働者】

ブラック企業を懸命に支えているのはブラック労働者だ。


ブラック労働者とは基本的に「真面目」で「責任感」がある「いい人」たちのこと。
「仕事」はなんでもきちんとやってしまうのだ。
責任感があるので途中で放り投げたりできない。
そういうところに、強欲でろくでなしのブラック経営者はつけ込む。


そう考えるとやはり「いい人」な労働者が悪いのではなく悪質な経営者が悪いのではないかと考えてしまう。
が、やはり「いい人」は「わるい人」なのだ。


俺が「ブラック企業なんかとっとと辞めてしまえばいい」と言うと、ある友人は「残された同僚に負担をかけてしまう」と言った。


超絶バカだと思った。
絶望的に悲しかった。


ブラック企業なんか一刻も早く潰してしまうことが世のため人のため。
ブラック経営者に、こんなやり方じゃ人はついてこない、会社経営なんてできないと分からせてやらなきゃならん。


その唯一の方法が「辞めてあげる」ことなのに、ブラック企業に勤めながらブラック経営者の思考回路を変えられるとでも?


自分が辞めたあとの同僚の仕事量を気にするならいかに早く同僚もブラック企業を辞められるかを考えろよ。
それこそが本当の「同僚のため」だろ。
だから率先してまず自分が辞めるんだろ。
なに一緒にクソ仕事を乗り越えようとしてんの?
そんなことに頑張りを感じて連帯感に浸りたいの?


「辛いこと」に対して「立ち向かう」「乗り越える」「我慢する」「頑張る」って、どんな場合でも美談になりえるわけじゃないから。
頑張る前に「本当にそれは頑張るべきことなのかどうか」をもっと真剣に注意深く考えて。
「同僚のため」「同僚が心配」だって本気で考えてるならそこに一緒に残ることを頑張るな。


お前、それで同僚が自殺したらどうすんの?
責任なんか、取れないでしょ?
一緒に辞めることを頑張れ!

「まじめ」という病

【まじめなこと自体に良し悪しはない】

「やりたくない」とか「できない」を「甘え」だとか「無責任」だとか「逃げ」だとか言ってくる他人は、自分の都合や価値観が「タダシクてリッパでマトモ」だと思い込んでるだけの人なのでそんなものを気に病むことはない。


ところが彼らよりもやっかいなのは、こんな「他人の都合」に縛られて振り回されちゃう「まじめな人」だ。


まじめな人の特徴は「ちゃんとしなきゃ病」にかかってること。
まじめな人はちゃんとしてない人が許せない。
まじめな人は不寛容で怒りっぽい。


自分はちゃんとしてて正しいと信じ込んでるので、自分の機嫌が悪いのはちゃんとしてない人のせい。
自分に非があるなんて考えない。
自分が正しいのだから、ちゃんとしてない人は怒られて当然、叩かれて当然。


どんな汚い言葉も強い口調も卑劣な攻撃も許される。
「だって私はちゃんとしてて正しいから。」

三回目の人生を生きる

【本当の人生の始まり】

『私達はいわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。』
思想家 ジャン・ジャック・ルソー


子供は生まれてからしばらくは親の教えであったり学校の教えであったり大人の言うことを聞いて育つ。
それは非力な子供がとりあえず生き延びるための処世術であり大人の言うことが正しいかどうかは関係ない。


そうした時期を経て精神的、経済的に独立を果たし自分のことは自分で決め、その決断に責任を持つ覚悟と引き換えに自由を手にする。
ここからが本当の人生の始まりである。


これがルソーの言う「二回この世に生まれる」の意味だと俺は思っている。


しかし、この本当の人生というものはただ年齢を重ねれば始められるものではない。
精神的、経済的な独立というものは意識して努力して訓練しなければ果たせないものなのだ。


その第一歩は子供時代に大人たちに教えられた価値観や常識やルールを疑うことである。


『常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである。』
物理学者 アルベルト・アインシュタイン


全てが自分に合っているわけでも全てが自分に合っていないわけでもない。
大切なことは取捨選択である。
身に付けた(身に付いてしまった)偏見のコレクションを一つ一つ精査し断捨離する過程が本当の自分を取り戻すために必要なのだ。


本当の自分、というと疑わしく聞こえる。
人は絶えず変化するものだから。
しかし人格の核となる部分、芯となる部分は不変だ。
人は自分を持って生まれてくる。
新しく創造する必要はない。
生き延びるための方便に埋もれてしまった自分を掘り起こし、日々の生活のしがらみに囚えられてしまった自分を解放しなければならない。
そこからが本当の人生の始まりだ。

俺は自分を知るのに10年かかった。
27歳から37歳までの10年間は明確にそのための時間だった。
それは使い古された言葉で言えば自分探しの旅だった。
完全に理解したわけではないしこれから変わっていく部分もあるだろう。
それでもやっと「自分がどういう人間でどういうふうに生きていきたいのか」「何が好きで何が嫌いなのか」「何があれば満足でそのためには何を捨てられるのか」を掴めた気がする。
ここから、本当の自分の人生を生きていける気がする。


0歳から27歳までの存在するための人生、27歳から37歳までの知るための人生。
そして38歳から三回目の、生きるための人生だ。