綺麗に書ける状態じゃない

【乱筆御免】
頭の中を渦巻く思いを、理路整然と誰にもわかりやすく誰にも配慮した文章でなんて書けない。


とにかく吐き出したいんだ。
自分の頭の中でぐるぐる回って回って遠心力で飛び出していくんだ。
力任せに、無目的に、自分勝手に、我儘な駄々っ子のように泣きわめいてさっぱりしたい。


我慢して生きてきたんだよな。我慢してるなんて思いもしないで。
気がついちゃったんだよある時に。ああ、自分はこんなに我慢して生きてきたんだって。


この自分の性格は天与のものだから、自分がこうなのは仕方ないよな、そう諦めて生きてきたけど、本当は、育ってきた環境に大きく影響されていたんだなって。


すっと胸のつかえが取れた気がして、心が軽くなった。
そしたら今度は、無意識で抑えつけてきた感情が堰を切ったように躍動し始めた。


そんなもんだから、綺麗に文章になんてできないよ。
書きなぐるだけで精一杯さ。


掃き溜めみたいなブログかもしれないけど、そのうち落ち着いてきたらなんか方向性見えてくるかも。


ではまた。

学校が大嫌い。目に見えないものを見よう

【教育の本質】
身体に色や形があるように、心にも色や形がある。
肌の色や身体の大小や障害の有無で差別しちゃいけないよね?
黒い人に「白くなれ」なんて言うのは暴言中の暴言だし、背の低い人に高いところの物を取れなんて言ったら嫌がらせ以外の何物でもないよね?


なのに何で気弱な人に「強くなれ」っていったり足の遅い人に「速くなれ」っていったり勉強のできない人に「できるようになれ」っていうのは「暴力」じゃなくて「教育」になるんだ。


やらせてみることは悪くない。ただ何かが向上すること、何かができるようになることが「当然良いこと」でそうさせることが教師として「正義」だという風潮や評価基準が大嫌いだ。


心は目に見えない。人が何をどう望んでいるかも。
だから可能性としてあらゆる色や形を想定して模索していくという作業が必要なんだ。
その人が「そうなれるかどうか」は一つの可能性でしかない。
方向性を勝手に決めつけるな。
学校の意味はなんだ。教師の役割はなんだ。教科書の暗記や知識の詰め込みなら他所でもできるだろ。


「可能性」であって「理想」ではない。
「想定」はするが「決めつけ」はしない。
「模索」はするが「創作」はしない。


「教育」は粘土をこねたり木や石を彫ったりして理想形を作りあげる作業ではなく、土の中から化石を掘り出すような「相手ありき」の慎重で繊細な作業なんだ。


教育は「彫刻」ではない。
教育は「発掘」だ。


ではまた。

諦めるな、ではなく諦めた先に

一寸先は闇、なら

一寸先は光、もあるだろう

空へは

崖っぷちまで行った者だけが

飛べる





※「一寸先は闇~」は宇多田ヒカルさんの『人生最高の日』の歌詞を参考にし「崖っぷちまで行った者だけが飛べる」は『高橋の手帳大賞』の受賞作品から引用し創作させていただきましたm(_ _)m

強者の作法、弱者の作法

【金持ちの役割と普通民の役割】


「強い」ほうが世の中は有利。 
だって世の中は常に強い人たちが先導し、作り上げ、維持しているものだから。
だからって彼らに合わせなきゃなならない理由はないし、むしろ強い人たちは弱い人たちに合わせられる余裕があるんだから(あるはずだから)世の中を弱者目線で設計し構築し直すべき。
世の中のすべての構造物と建築物がバリアフリーでも健常者にとってはなにも問題ないよね。同じこと。


ノブレス・オブリージュ』とは『高貴なる者にともなう義務』とか訳される言葉。 
単純にいえば「金持ちは施せ」。
日本は「施し」なんていうと金持ちの驕りだの金をひけらかしてるなんて目で見られたり、逆に施される方は恥みたいに思い込むふしがあると感じる。


いいんだよお互いにそんなの気にしないで!
ガンガン施したり施されたりすればいいのさ!
生活保護なんかも受けとるのは恥みたいな、人に頼ってんだから謙虚に密やかに生きろみたいな空気なんなん?
稼げる人が稼いで世の中を潤してそれに対して普通民は「いつもあざーっす!」でいいじゃん。


妙なプライド持つな。
金持ちをおだてて施しがステータスに感じられるように教育するのは普通民の大事な役目よ。


ではまた。

嫉妬とあこがれと理解

【嫉妬に陥るなかれ。あこがれに留まるなかれ。】


「嫉妬」とは「自分が追いつけそうなレベルの相手」もしくは「自分のレベルまで引きずり落とせそうな相手」に対して抱く感情だ。

それに対して「あこがれ」とは、もはや追いつくことも引きずり落とすことも叶わぬと思い知る相手を前にして、嫉妬を超えて芽生える尊敬の念なのだ。
つまり「あこがれ」とは「嫉妬の最上級」なのだ。


しかし、あこがれは思考停止でもある。
あこがれたものになりたいなら、あこがれたものに追いつきたいなら、思考することをやめてはならない。

対象を盲目に崇拝するのではなく、対象の細部にまで目を凝らすのだ。
徒に嫉妬し苦しむのではなく、追いつき追い越すことを見据えて強かに嫉妬するのだ。

あこがれつつ嫉妬し、それをエネルギーにして進め。


ではまた。

シン・国民の三大義務

【目的と手段を間違えるな】

国民の三大義務は『食う・寝る・遊ぶ』だ。


十分に食えること、安心して寝られること、楽しく遊べること。
『勤労・納税・教育』はこれらを実現するための「手段」でしかない。


食って、寝て、遊べ。


自分が十分に食って、寝て、遊べればその余裕を他の人にも分けてあげられる余裕が生まれる。


そのための勤労、納税、教育だ。
そう思えれば、働くことも税金を納めることも勉強することも、少し楽しくならないかな。


ではまた。

京王線無差別殺傷事件の犯人について思うこと

【無意味に気付き出発しろ】


京王線での無差別殺傷事件の犯人が、ただただ可哀想だ。


被害者の方々や現場に居合わせた方々の痛みや恐怖に思いを寄せることは言うまでもない。
それは大前提として、この犯人が哀れで仕方がない。


こんなことしかやれることがなかったのか。
心を通わせられる人が、苦しい胸の内を打ち明けられる人が、悲しみを分け合える人が一人もいなかったのか。
ゲームでもアニメでもアイドルでも漫画でも音楽でも映画でも音楽でも、何かしら楽しめることや楽しみなことがなかったのか。
もしくは、それらを失ってしまったのか。


犯人の供述では仕事で失敗して友達関係もうまくいかなかったとのことだが、問題はそれではなくそれが絶望にまで感じられてしまうことだ。
人間の苦しみはその人だけのもので、決して絶対的な評価を下せるものではない。
彼が苦しいと言えばそれを他人がそんなに苦しいことではないなどと評価することは無意味だ。


言い替えれば、自分の苦しみは自分以外の誰にもどうすることはできず、たとえ友達や趣味などの拠り所があったとしてそれはどこまでも自分で解決するための「手がかり」でしかない。
はじめに俺は犯人について「何もなかったのか」と哀れんだが、もしかしたら彼は何かを持ち得ていてもそれを手がかりに自分で悲しみや絶望を処理してゆく能力がなかったのかもしれない。
犯人は「死刑」を望んでいるというが、それも正に自分では処理できず他人任せにしようという姿勢が見て取れる。


人間は自分以外の何かをどれだけ持つか(獲得するか)ということが問題解決になるのではなく、今自分の手元にあるもの(持ち得たもの)をいかに上手く使えるかが問題解決には大事なのだ。


犯人は思いつく犯行理由を述べはしたがそれは犯行のきっかけにすぎず、それまでの人生に小さな感情の目詰まりがたくさんありそれが解消されずに積もり積もってどうしようもなくなり犯行という形で溢れ出てしまったのではないか。


塵も積もれば山となる。山の中に埋もれてしまった自我を掘り起こし助け出すことは容易ではない。
自分一人でできるだろうか。
誰か手伝ってはくれまいか。
その声をあげることすらできるだろうか。


今回の犯行は、声のあげ方としてはあまりにも悪手だった。
ただ、これはやはり犯人の「声」なのだ。
あらゆる稚拙さと幼稚さを含む泣き声。
許されざる身勝手で無遠慮な叫び声。
自分から壁を作り歩み寄ることを諦めながら、なお裏腹に誰かに助けを求めてみたかった今際の声。


犯人のやったことは赦されることではない。
誰に?自分自身に。
社会は勝手に裁いてくれる。赦す赦さないも勝手に議論してくれる。
問題は自分自身だ。犯人には自問自答の末に気付いてほしい。他人に牙を向けたところで自分の問題は解決しない。死んだとしても解決しない。
生きて、生の中で自分自身と向き合い話し合い殴り合い慰め合いながらでしか解決できないことに気付き、他人を責めることや生を終わらせることに何の意味もないことに気付いてほしい。
そうやってこれからの人生を歩んでほしい。


犯人への哀れみはそのまま俺自身への鼓舞なのだ。
心の内の俺が言う。こうなってはいけないぞ、こんなことやっても無意味だぞ。生きていれば傷つくのは当たり前、他人に理解されないのも当たり前。傷つくために生まれてきたのだ、傷ついてこそ知れるものを知るために生まれてきたのだ。
泣きながら笑ってゆけ。それが人生だ。



ではまた。