京王線無差別殺傷事件の犯人について思うこと

【無意味に気付き出発しろ】


京王線での無差別殺傷事件の犯人が、ただただ可哀想だ。


被害者の方々や現場に居合わせた方々の痛みや恐怖に思いを寄せることは言うまでもない。
それは大前提として、この犯人が哀れで仕方がない。


こんなことしかやれることがなかったのか。
心を通わせられる人が、苦しい胸の内を打ち明けられる人が、悲しみを分け合える人が一人もいなかったのか。
ゲームでもアニメでもアイドルでも漫画でも音楽でも映画でも音楽でも、何かしら楽しめることや楽しみなことがなかったのか。
もしくは、それらを失ってしまったのか。


犯人の供述では仕事で失敗して友達関係もうまくいかなかったとのことだが、問題はそれではなくそれが絶望にまで感じられてしまうことだ。
人間の苦しみはその人だけのもので、決して絶対的な評価を下せるものではない。
彼が苦しいと言えばそれを他人がそんなに苦しいことではないなどと評価することは無意味だ。


言い替えれば、自分の苦しみは自分以外の誰にもどうすることはできず、たとえ友達や趣味などの拠り所があったとしてそれはどこまでも自分で解決するための「手がかり」でしかない。
はじめに俺は犯人について「何もなかったのか」と哀れんだが、もしかしたら彼は何かを持ち得ていてもそれを手がかりに自分で悲しみや絶望を処理してゆく能力がなかったのかもしれない。
犯人は「死刑」を望んでいるというが、それも正に自分では処理できず他人任せにしようという姿勢が見て取れる。


人間は自分以外の何かをどれだけ持つか(獲得するか)ということが問題解決になるのではなく、今自分の手元にあるもの(持ち得たもの)をいかに上手く使えるかが問題解決には大事なのだ。


犯人は思いつく犯行理由を述べはしたがそれは犯行のきっかけにすぎず、それまでの人生に小さな感情の目詰まりがたくさんありそれが解消されずに積もり積もってどうしようもなくなり犯行という形で溢れ出てしまったのではないか。


塵も積もれば山となる。山の中に埋もれてしまった自我を掘り起こし助け出すことは容易ではない。
自分一人でできるだろうか。
誰か手伝ってはくれまいか。
その声をあげることすらできるだろうか。


今回の犯行は、声のあげ方としてはあまりにも悪手だった。
ただ、これはやはり犯人の「声」なのだ。
あらゆる稚拙さと幼稚さを含む泣き声。
許されざる身勝手で無遠慮な叫び声。
自分から壁を作り歩み寄ることを諦めながら、なお裏腹に誰かに助けを求めてみたかった今際の声。


犯人のやったことは赦されることではない。
誰に?自分自身に。
社会は勝手に裁いてくれる。赦す赦さないも勝手に議論してくれる。
問題は自分自身だ。犯人には自問自答の末に気付いてほしい。他人に牙を向けたところで自分の問題は解決しない。死んだとしても解決しない。
生きて、生の中で自分自身と向き合い話し合い殴り合い慰め合いながらでしか解決できないことに気付き、他人を責めることや生を終わらせることに何の意味もないことに気付いてほしい。
そうやってこれからの人生を歩んでほしい。


犯人への哀れみはそのまま俺自身への鼓舞なのだ。
心の内の俺が言う。こうなってはいけないぞ、こんなことやっても無意味だぞ。生きていれば傷つくのは当たり前、他人に理解されないのも当たり前。傷つくために生まれてきたのだ、傷ついてこそ知れるものを知るために生まれてきたのだ。
泣きながら笑ってゆけ。それが人生だ。



ではまた。