学校が大嫌い。目に見えないものを見よう

【教育の本質】
身体に色や形があるように、心にも色や形がある。
肌の色や身体の大小や障害の有無で差別しちゃいけないよね?
黒い人に「白くなれ」なんて言うのは暴言中の暴言だし、背の低い人に高いところの物を取れなんて言ったら嫌がらせ以外の何物でもないよね?


なのに何で気弱な人に「強くなれ」っていったり足の遅い人に「速くなれ」っていったり勉強のできない人に「できるようになれ」っていうのは「暴力」じゃなくて「教育」になるんだ。


やらせてみることは悪くない。ただ何かが向上すること、何かができるようになることが「当然良いこと」でそうさせることが教師として「正義」だという風潮や評価基準が大嫌いだ。


心は目に見えない。人が何をどう望んでいるかも。
だから可能性としてあらゆる色や形を想定して模索していくという作業が必要なんだ。
その人が「そうなれるかどうか」は一つの可能性でしかない。
方向性を勝手に決めつけるな。
学校の意味はなんだ。教師の役割はなんだ。教科書の暗記や知識の詰め込みなら他所でもできるだろ。


「可能性」であって「理想」ではない。
「想定」はするが「決めつけ」はしない。
「模索」はするが「創作」はしない。


「教育」は粘土をこねたり木や石を彫ったりして理想形を作りあげる作業ではなく、土の中から化石を掘り出すような「相手ありき」の慎重で繊細な作業なんだ。


教育は「彫刻」ではない。
教育は「発掘」だ。


ではまた。