お前に人は助けられない、そして宝くじは当たらない

【なれるのか?ヒーローに】

こんな出来事がニュースを賑わせていた。

『暴漢から女児救出 レスラー表彰へ』

要約すると新日本プロレス所属のプロレスラーである「グレート‐O‐カーン(おーかーん)」選手が駅構内で女児に暴行を働こうとした泥酔男を取り押さえ警察から感謝状を授与されるというとてもホットなニュースである。
彼は普段のリングでは風貌も言動もコワモテだが今回の件については「余は正義を貫いたまで」と話したそう。


このニュース自体はこれで終わり。心温まる良いニュースだ。
しかしこれを聞いたとき「俺もこんなふうな活躍したいぜ」と思った人はいないだろうか。
少なくとも俺は思った。というか常々こんなことを妄想している。
たとえば電車の中で通り魔が発生したニュースを聞いたとき。俺なら逃げずにぶっ飛ばすね!とか謎に心の中でイキるという具合だ。
誰かが目の前で困っていたら正義のヒーロー気取りで颯爽と助けたい。
こういう妄想は無意識レベルでふっと浮かんでは消えてゆく。
このような妄想は荒唐無稽であろうか。そしてこのような妄想をしてしまう理由はなんなのか。
俺なりに考えてみた。


途中式を省くような拙い文章で申し訳ないが、この手の妄想をするやつは現状の自分に満足していない。
満足していないからって何か目的をもって一歩一歩前進する努力をしているかといえばそうでもない。
非常に安直に、人生の一発逆転を願って漫然と生きているのだ。自分で書いていてつらい。
ここで「一発逆転を『狙って』」ではなく『願って』というところが味噌である。「味噌である」って今も使う?
『狙う』という行為は具体的なたくらみであって『願う』は単なる神頼みだ。
前者はいつか成し遂げるかもしれないが後者には永遠にその時はやってこない。


ミスターチルドレンの『天頂バス』という曲の歌詞に「「明日こそきっと」って戯言ぬかして自分を変えてくれるエピソードをただ待ってる 木偶の坊」という一節がある。
そう、こういう妄想だけをたくましく働かせているやつは全員ただのなんの役にも立たない「木偶の坊(でくのぼう)」なのである。
話しを戻そう。もし、冒頭のレスラーと同じ状況に自分が居合わせたとき、そのとき咄嗟に自分は体が動くだろうか。
喧嘩や格闘技の経験もなく、体を鍛えているわけでもなく、妄想の中だけでイキっている自分がその場で酔っ払い男の肩を掴みにいけるだろうか。
否、である。
そしてもし掴みにいったとして、相手にやり返されて受け身も取れず大怪我をするか、相手をやりこめたとして慣れない状況に興奮して必要以上に相手にケガを負わせてしまうかするだろう。
このプロレスラーは男を取り押さえてから警察が来るまでの間に女児の心のケアまでしている。
普段から妄想しかしていないやつとは体の鍛錬も心構えも違うのだ。


つまりだ、うだつの上がらない日常を送り何を狙うこともなく願ってばかりいるやつは、たとえ目の前に「自分を変えてくれるエピソード」がやってきたとしても、それに気づく察知能力も掴む瞬発力もしがみつく持久力もなにもないのだ。
チャンスが来ないわけではない。来るかもしれない。しかし、来ても掴めないのだ。


ヒーロー願望を持つことの是非は問わない。ただその「ヒーローになれそうな出来事の発生」を望む気持ちは捨てるべきだ。
そんな出来事は起こらない。起こったとしてそんな都合よく解決できない。都合よく解決できたとしてその一回だけで自分の人生は何も変わらない。
一発逆転もリセットも、用意周到な努力と準備の積み重ねの上に起こるものなのだ。


いいか、だからそんなお前には宝くじも当たらない。
当たったとして大金の使い方を知らないお前はすぐにくだらにことで金をする。
悪いやつらにたかられて煽られていい気になって金を溶かす。
宝くじが当たる前よりも人も金も失って貧乏になる。
いいか、願うな、狙え。
ニュースを見て、お前の力が及ぶ範囲より外のことに興味を示すな。望むな。焦るな。憧れるな。
足元を見ろ。今手に持っている小さなライトで照らせる先だけを確実に歩んで行け。
そうすればきっとなれるよ。木偶の坊なんかじゃない、お前なりのヒーローに。


ではまた。