「がんばれ」なんて人に言えない!

【諸説あり】

ネットで調べると「がんばる」の語源は主に2つ出てきます。

ひとつめは『眼張る』 これは「目をつける」や「見張る」という意味から「一定の場所から動かない」となり、現在の意味に変わっていったとする説。

ふたつめは『我を張る』 これは「自分の考えを押し通す」というところから現在の意味に変わっていったとする説。

ふたつめの説を「がんばる」の語源とすると、それは我欲のための行動であるとして昔は「がんばることは卑しいこと」と考えられていたという話もあるようです。

ここで、私がいつのことか忘れた昔に新聞で読んだもうひとつの「がんばる」の語源となった逸話を書き残しておこうと思います。

それはまだ地方の貧しい農村で子供の身売りが行われていた時代の話。 ある村では身請け先の町へ行くためには峠を越えなければならず、村を離れる子供たちは商人に連れられてその峠を越えていった。

峠に差し掛かると子供たちは来た道を振り返り、家族のため二度とは帰るまいとの決意でもってその眼を見張り村の姿を目に焼き付けたという。 そこから「眼を張る」「眼張る」「がんばる」になったとする逸話です。

これは創作かもしれません。 しかしこの逸話はいつ読んだかも忘れた昔から今も私の胸に深く刻まれています。

「がんばる」とは「決意」であり「覚悟」の言葉なのです。 そして他人に気安く「がんばれ」などと使える言葉ではないのです。

「がんばれ」は便利な言葉です。 ついつい何の気なしに使ってしまいます。 そこに深い意味は込められていません。 しかし今まさに「がんばっている人」にとってはとても重たく苦しい言葉です。

そういう人に寄り添える言葉は何なのか。 寄り添えるほどの苦しみの共感が自分の中にあるのか。 便利な言葉だからこそもう一度よくよく自分の胸に問いかけてみなければならない。

「私は今この人に『がんばれ』と言えるのか」 「言えなければ、他にどのような言葉があるのか」 「無理に言葉をかけるよりも、黙っているほうがまだマシなのではないか」 「ただ黙っているくらいなら、何か行動で気持ちを表すことはできないか」

もっと考えよう、「がんばる」の意味を。 もっと伝えよう、「がんばっている人」に自分の気持ちを。

ではまた。